【物語】猿の手 (前編)

夫婦は家の一室を旅行者に貸すことを趣味にしていた。一人息子が成人し手がかからなくなったので、宿泊費で稼ぐことよりも訪れる旅人から異国の地の事や旅の土産話を聞くことが何よりの楽しみなのであった。

 

ある大雨の夜に一人の男がやってきた。男は予約はなかったがインターネットで探してこの家にたどり着いたようだ。幸いにも悪天候の影響でダイヤが乱れ、宿泊予約がキャンセルされたところだったので、夫婦は喜んでこの男を迎え入れることにした。

 

薄いプラスチックのポンチョは役に立たず、すっかり濡れそぼっている男を暖炉の前に座らせると温めたスープを振る舞った。男は礼を述べるとうまそうにスープをすすったのだった。

男がスープを飲んでいるところを主人は盗み見た。スーツケースではなく大きなバックパックを持っているところから、長期間の旅をしてきたのだろうと思われる。無精髭で多少老けては見えるが実際は三十を越えたくらいだろうか。口数は少ないが物腰は柔らかで主人も婦人もすぐに男に好感を持った。

 

食後に夫婦が暖炉前でくつろいでいると、シャワーを済ませた男が小さなカバンを肩にかけて部屋から降りてきた。身綺麗になると一層信頼のおける印象を受けた。暖炉前の揺り椅子を薦め、ウィスキーを注ぐといただきますと言ってグラスを受け取ったのだった。

 

「ずいぶん旅慣れていらっしゃるとお見受けします。もしよかったら旅のお話を聞かせてくれませんか。」

「東南アジアを半年ほど旅しておりました。これから南米に行こうかと思っていた矢先、この大雨で交通が乱れて難儀していたところです。私のようなものの話でよければいくらでも。」

そう言って男は旅先で出会った珍事を話してくれた。話しはうまく夫婦はすっかり引き込まれ、時折ウィスキーのおかわりを注ぐ以外には立ち上がりもせず話に聞き入ったのだった。

話が途切れたとき、男のカバンが目に付いた。

「そちらのカバンには何が入っていらっしゃるのですか。」

その言葉にふっと男の目が暗くなったような気がした。酔いが回ったのか、暖炉の火がそうさせるのか顔は赤く余計にそう感じたのかもしれない。

少し言い淀んだあと決心したように男は話し始めた。

猿の手が入っているのです。」

夫婦は男の言っていることがうまく飲み込めなかった。

「私があるアジアの国の村を訪れた時です。高熱を出して弱り切った子供がいました。たまたま私が持っていた抗生剤をやると、私の滞在中に元気になりました。家族は半ば諦めていたものとみえ涙を流して喜んでくれました。私としては偶然が功を奏しただけですが感謝されて悪い気はしません。その子供の祖父というのがやってきてお礼にと油紙に包んだものをくれました。包みを開いてどきりとしましたよ。子供の手の干からびたようなものが入っていたのですから。その祖父がいうにはこれは猿の手だというのです。手にした者の願いを三つ叶えてくれるというのです。」

「なぜその猿の手で病気を治さなかったのでしょうかね。そんなものが本当にあるなら使えばいいものを。」

「私も同じことを聞いてみました。その祖父が言うには猿の手に頼むのは恐ろしくて使えないと。何も恩返しができないからこれを貴方に譲るのだが、使う時は本当に気をつけてくれと何度も念を押されました。」

婦人は我慢できないと身を乗り出しながら尋ねた。

「使って見ましたか。その猿の手がそのカバンの中に入っているのですか。」

男は黙ってカバンを開けるとそっと油紙の包みを取り出した。男が包みを開くと肘から先しかない手のような、枯れ木のようなものが出てきた。婦人は息を飲むと身を引いて深く椅子に座り直した。

男はその猿の手を目の高さに持ち上げ、じっとしていたかと思うと不意に暖炉に投げ入れた。

あっ、と叫んで主人は慌てて火箸を取り上げると暖炉から猿の手をすくい上げた。少し煤が付いたが損傷はないようだった。

「何をするのです。」

「それは焼いてしまうべきです。もっと早くに私が処分しておけばよかった。捨てることもできずに持ち続けていたのは間違いなんだ。」

そう言って主人の方に手を伸ばす男から猿の手を遠ざけるようにして主人は男に言った。

「貴方が焼いてしまうのであれば、私にくださいませんか。このように妻も私も旅のお話を聞くことだけが愉しみでして。思い出の品があると明日からもお客様がいらっしゃらない時も思い出して愉しめるのでして。」

しばらく無言であったが、ふっと息を吐くと男は立ち上がった。

「こんな大雨の日に不意にやってきた私を泊めてくださってありがとうございます。御礼と言ってはなんですがそちらは差し上げます。ただし出来るならすぐにでも焼いてしまってください。本当に。私は忠告しましたから。」

そして疲れたからといって男は夫婦に断って部屋に戻っていった。

「少し気味が悪いわ。やはり焼いてしまった方がいいのではないかしら。」

「なに、猿の手だと言われれば気味が悪いが、かと言って本当に願いがかなったりするわけでもなし、次の旅人が来た時の話の種になるだろう。」

そう言うと主人は猿の手を油紙で包み、そっと暖炉の上に置いた。

 

 

(後編に続く)

 

*この話は『怪奇小説傑作集1米英編1 [新版](創元推理文庫)』に収録されている「猿の手(W. W. ジェイコブス著)」を改編したものです。