【物語】猿の手(後編)

翌朝早く、あいかわらず雨は降り続いていたが、男は生乾きのポンチョを再び羽織ると丁寧に御礼を述べて夫婦の家をあとにした。去り際にちらりと暖炉の上の包みに目をやったが、なにも言わずに出て行ったのだった。

二人きりになると主人は油紙を開いた。表面にはうっすらと毛が生えている。指先には爪もあるが指の長さや手の形が人間のそれとは異なって、やはり猿の手か思った。

「なにをお願いするの。」

振り向くと婦人が立って心配そうにこちらを見ていた。主人は自分も不安だったのだがわざとおどけて猿の手を頭の上に掲げて振ってみせた。

「そうだなぁ、せっかく願いが叶うんだったら世界がよくなるように願ってみようか。猿の手よ、世界から飢餓をなくしてくれ!」

と言った途端主人はびくっと体をこわばらせると猿の手を落としてしまった。

「どうしたの。」

婦人は震える声で尋ねた。

「いま、手の中でこいつがぶるりと震えたような気がしたんだ。」

恐る恐る主人は猿の手を拾い上げた。特に変わったところはないようだ。

「やはり気のせいか。願いが叶うことなんてあるわけないし、もし叶ったとして世界から貧困がなくなるならいいじゃないか。」

内心はまだ動揺していたがそう言って自分自身を納得させ、婦人を促して食事に取り掛かった。

午前中は男の泊まった部屋を次の客のために掃除したり、家の片付けをしているうちにあっという間に時間が過ぎ、二人がゆっくりと座って一息ついたのは昼も過ぎた頃だった。雨はまだ降り続いている。

主人がコーヒーを淹れていると、居間から悲鳴が聞こえた。慌てて駆けつけると婦人が立ち上がってテレビを指差している。

テレビには速報が流れていた。

”・・・二大国間で核戦争勃発。二国計で世界人口の半数をしめる。ほぼ全滅か。 我が国にも電波障害、放射線汚染などの二次災害の恐れあり、最新の情報に留意し・・・”

どこのチャンネルも同じニュースを報道している。昨日までなんの予兆も報道されていなかった。こんなことが突如として起こるとは信じられない。

「まさか、さっきの願いで。。」

「私が願ったのは飢餓をなくしてくれと言ったんだ。なにも核戦争を起こせだなんて言ってない。」

「で、でもこれで世界人口が激減したら少なくとも食料不足はなくなるんじゃない。」

「そんな馬鹿な。」

主人は絶句した。おもむろに暖炉に行くと猿の手を持って居間に戻ってきた。

「ほんとうにこいつのせいだと言うのなら、あと二つは願いが叶うはずだ。元に戻してもらおう。たのむ、一つ目の願いをなしにして死んだ人を元に戻してくれ。」

婦人があっと声をあげる内に主人は願いを口にしてしまった。婦人は顔を真っ青にして言った。

「今の願いで本当に大丈夫なの。飢餓をなくすために数十億の人間が突如亡くなったのよ。生き返らせるってまっとうに生き返らせるのかしら。いいえ、何か恐ろしいことが起きる気がするわ。深淵の縁を覗き込んだような、とても暗くて不穏なことが起こる気がするの。」

婦人はがたがたと震えだした。

主人は自分の家から何千キロと離れた焼けただれた大地に無数の影が立ち上がるのを感じた。影はやがて音もなくゆっくりと生きた人々のところにやってくるのだ。外で降り続く雨の音を打ち消すかのように影が強くドアを叩く日がやってくるのだ。影の訪れに幾日、幾月かかるのかわからないが確実に歩みを進めるその存在を意識して正気で居られるだろうか。頭を抱えて震える妻をみると、主人は再び猿の手を握りしめた。

「一つ目の願いを叶える前まで時間を戻してくれ」

 

相変わらず大雨が続いている。

ぼんやり窓の外を見ていた主人が電話の音でふと我に返った。電話は今晩宿泊予定だった若い女性からだった。大雨のせいでダイヤが乱れたため、今日はたどり着けそうにないというのだった。主人はこんな天候ですからと、キャンセル料もいらないと伝えた。

婦人は今日の予約がキャンセルになったと聞いたが、せっかくだから料理を作ってしまうわと台所に向かった。

 

夜になると一人の男がやってきた。男は予約はなかったがインターネットで探してこの家にたどり着いたようだ。幸いにも予約キャンセルされたところだったので、夫婦は喜んでこの男を迎え入れることにした。

 

(おしまい)

 

*この話は『怪奇小説傑作集1米英編1 [新版](創元推理文庫)』に収録されている「猿の手(W. W. ジェイコブス著)」を改編したものです。